グロブ

気合い

衝動的死

自分の記憶を辿る。私の脳内は靄がかかったような状態で5歳の記憶を投影する。6歳、7歳と年を経るにつれ徐々に靄は消えてゆく。


思い出とは全くのデタラメであり、現在の脳が演出し、あたかも事実であったかのように過去を捏造しているに他ならないのだ、という誰かの言葉を思い出す。


私にはそれが小説の一節であったか、学術的な結論であったか、はたまた私の捏造であるのかを断定することが出来ないが、「腑に落ちる」という感情と共に記憶されていることだけは確かだ。


考えてみれば私の記憶のうち、靄がかかっているものは写真をトリガーに思い起こされた記憶に他ならない。園児の私が笑ったり、泣いたり、不貞腐れたりしている写真を視認し、「ああ、こんなこともあった気がする」という観点で写真の中の自分の感情を推測し納得することで得られる、明らかに捏造された思い出そのものである。写真という情報のみで作話をするため、当時の現像技術に脳内映像が依存しているのであろうか。次第に記憶の靄が薄くなってゆくのもこの原理なのかもしれない。


今の子供たちは私より数千倍鮮やかな思い出を捏造するのだろう。首を絞めて死ぬ。