グロブ

気合い

最悪の世代

このブログで使っていた一人称を忘れてしまった。いつかの記事でもあやふやになった一人称を誤魔化すためにいきなり「あちき」を用いたことがあった。以下ではとりあえず最も手に馴染む「私」を使いたいと思う。

 

私はこの春季休暇にフェンシングを再開している。自分が小中学生の「焼酎が臭ぇ」と嘆いていた9年間を過ごした道場の運営を手伝うという名目でちゃっかり運動をしちゃおうという軽い気持ちでのOB風いっちょ吹かせたりましょかいムーブである。

 

今のクラブと私が在籍していた頃のクラブは180°雰囲気が異なっている。主な相違点は関与している大人の関係がギスってないことである。私の世代(2001年生から上下3年くらいまで)は所謂2世と呼ばれる、高校大学時代に嗜んでたオトンオカンを親に持つ子供が多い世代であった。競技の歴史的な観点から考えても親世代は高校部活としてフェンシングが全国的に市民権を獲得したあたりに相当し、都合よく一堂に会するかのように2世が登場することはなんらおかしなことではなかった。そして2世の存在は1世、つまり指導者となりうる親を持たざる者への受難を意味した。私のクラブは良くか悪くか2世が全体の8割近くを占めていたので、選手のレベルは高かったが私のような1世への風当たりは当然強く、親同士のコミュニティも経験者とそうでない者の間には強大な壁が存在し、救いようのないことに経験者間でも指導方針の違いによってバチバチのビチビチのブチブチだった(余談:2大派閥があって終始死ぬほど空気が重かった。しかも片方のトップは自身の大会運営上の不正行為でフェンシングと名のつく場所から永久追放の処分を受けた。これに関してはいつか話すかも)。

 

在籍していた2世の多くがベチベチに強く(本人の才能とたゆまぬ努力があったのは事実であるが親が経験者であるということのメリットはマイナースポーツであることも加味すると計り知れない)、全国大会上位8名が選任されるユースの日本代表が1つのクラブに10名近く在籍しているという化け物クラブだった。界隈でもクラブのネームバリューだけで過度に警戒されるほどの知名度を誇った。優勝が当たり前、上位入賞は最低条件という高尚な思想を掲げたクラブの雰囲気が一体どんなものなのか想像がつくだろうか。大会前1ヶ月を切ると練習中に私語は厳禁、有力な2世に怪我をさせたら戦犯、三下が強者の練習を邪魔してはならないという暗黙の了解がまかり通っていた。結果的に持たざる者は強制的に練習メニューが制限され、面倒を見てくれる指導者(先述した2大派閥のもう片方のトップ)に縋り、かろうじてボチボチの成果を残すことが決まりとなっていた。タチの悪いことに私を含む三下はその成果を達成感という感情ではなく恥としてしか認識できておらず(そう思わざるを得ない環境だった)、今思い返すとかなり不幸な存在だった。

 

私が中3の夏の全国大会の団体戦でかなり上位をとった時にも(具体的に順位書いたら個人が確定しちゃうから曖昧に書いときます。ただでさえ界隈の人が読んだら何県の何ていうクラブかまで容易に特定できる内容を書き殴っていて正直クッソ怖いので。助けて。しかもクラブ関係者が見たら100%誰か特定されちまう。誰も見ないでくれ。)喜びの前にクラブの面子を穢さずに済んだという感情が湧き上がった自分の空虚さを未だに覚えている。

 

指導者と生徒の中間の存在というフレキシブルかつ何の責任も負わなくていいポジションで練習に参加しているとよく分かるのだが、今のクラブは競技と娯楽とが共存している。2世が圧倒的に少ないということが大きく、技術に大きな差が存在せず日々の練習で切磋琢磨し大会ではベストを尽くすという健全な部活動の枠組みが成立している。例の名前を言ってはいけないあの人の退場によって派閥が消失したため、小学生が空気を読み自分がどちらに属すことがクラブとして正解なのかを決断する必要がなくなった点もクラブ内の雰囲気をより柔和なものへと導く要因の1つとなっている。

 

私がクラブへ残せたものは何かと今でも考えることがある。偉大な先輩達が残したものは名誉と道標。それらは揺るぎようもなく確かに存在している。競技としての意味では私が残せるものにそれ以上のものは無い。しかし4年ぶりに練習に参加するようになって感じた、社会的な協調性や思いやりのような感情は私が残した唯一のレガシーであるのかもしれないと思う。圧倒的な強者であった先輩が中学を卒業して自動的にクラブからも卒業し、いきなり層が薄くなったクラブを見る目は非常に正直で、いくら事前に覚悟していたとはいえかなり残酷だった。期待すらされず当然目を瞠るような結果も出せないそこそこの選手であった私はただひたすらに精神を押し殺していた。そんななかでも私は後輩に当たるチームメイトと練習に励み、全国的に見れば大して強くないと自覚をしながらもできるだけ後輩に還元しようと努めた。そのときに私の息がかかっていた世代が今や中学生や小学校高学年としてクラブを牽引している。そんな彼らに偉大な先輩たちの面影は無いが、成果主義の洗脳も受けていない。私は、そこに強さがなくとも確かに意味はあったのだと信じている。

 

クラブの歴史に私が名を刻むことは無い。クラブの2001年生は2世と1世とが半々で強さも関東の高校へ編入した1人の女子を除けばベスト32止まり。私は早々に個人としての成功に見切りをつけ競技から遠ざかったためそこで成長は止まってしまったが、数名は関東の私大へ進学し、私が「技ホーキンス」や「知ベッジ」などと検索している最中にも競技と向き合い、たとえ代表からは遠くとも夢を掴もうと努力をしている。そんな者たちの存在が私の救いになっているのも事実である。